世界とわたし


暖かい葉山でも木々はすこしだけ紅葉します。寝室の窓から見える山もほんのりお化粧。朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでからヨガの練習を。
最後はクラスでも必ず行う締めくくりのシャバアーサナ(Savasana)。マットの上に仰向けに寝て目を閉じ手足もおなかの力もすべて緩めてダラ〜ん。じっくり1時間以上かけたポーズと呼吸法の後だから、ヨガを始めて間もない生徒さんはついスヤスヤと寝てしまうことも。
たっぷり動かした体が落ち着くにつれ、感覚が目覚め始める。つま先から頭のてっぺんまでエネルギーが静かに満ちていき、鳥のさえずり、肌をなでる風、枯れ草のにおい、吹き抜けの窓から差す日の光の暖かさ、遠くで聞こえる子供たちの笑い声...。五感に触れるものすべてと、ひとつに溶け合うような感じにしばし身を委ねる。
ふだんは、社会的役割を持った「わたし」というのが自分を仕切っていて、何だかしらないけれど責任感(たいがい独り相撲だったりする)が発生し「こうするべき」と我が身にプレッシャーをかけ、何かひとつのことをしながらも次の段取りを考えていたり、昨夜のささいな諍いをひきずっていたりするけれど、このときばかりは、そんなあれこれも吹っ飛び「世界」(←世間、社会、自然...どれでも良いのですが)と「わたし」に境目がなくなって、今この瞬間、いっしょに存在してるんだねーと思います。正確に言うと頭(マインド)で「思う」のではなく、わたし全体がそう「感じる」
思考があらゆるものごとを「あれ」と「これ」に切り分け、自己と世界(=他者、自然etc...)が切り離されて存在すると感じてしまうわたしたち。そのせいで葛藤が起こり、結果を求めそれに一喜一憂し、孤独や苦しみが生じるのだ、自己が引き裂かれることのない非二元の世界に生きよというのはインドの「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(Advaita Vedānta 不二一元論)」 キリなく続く言語的思考(マインド)に支配され、すっかり固く鈍くなってしまったカラダをヨガで解放すると、もともとわたしたちの深いところに在るこの感覚がよみがえってくる。
日常へもどればあっという間に忘れてしまう儚い感覚。ところが、思考はすっかり忘れていてもどっこいカラダは覚えてるのですね。ちょっと忙しくなってカリカリしてくると「ヨガ、やろ」と思う。ヨガやらなくちゃ〜ではなくて、ただ「やろ」って思う。このときは「例の感覚」をもう覚えてません。で、たっぷりヨガの練習をした後またやってくる、ココロとカラダが世界と再統合される感じ。ヨガでスイッチを入れなきゃいけないのはまだまだ修行が足らんということだけれど、一度でも垣間見たなら後戻りはしない。すこしずつマイペースで変わればいいのだというわけで日々練習。
いつもブログを書くときは「社会的わたし」なもので、この感覚自体を忘れちゃってて書きたいのに書けなかった。今日はヨガの練習が終わった後、直ちにPCへ向かってみました。いやー、言葉にするのは難しい。最後までおつきあいありがとうございました。





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