今日を生きるということ


庭に自生する高砂百合。毎年8月になるとあちこちで花を咲かせる
幼なじみの訃報を聞く。
元気いっぱい、クラス一のひょうきん者、大人になっても性格はそのまま。弾けるような笑顔でおどけてみせ、誰とでも瞬時に打ち解けてしまうくせに、どこか一匹オオカミのところもある、そんな両極端な性格が似て、ふしぎと波長が合った。
20代の、それぞれが生き方を模索していた年頃、彼はいつもひょっこり家へ遊びに来て、どうでもいいようなくだらない話をし、よく朝まで飲み明かした。そんなに頻繁に会うってわけではないけれど、会えば近況報告や互いの恋愛話なんていうのは一切すっ飛ばし、話題はいきなり深いテーマへ入っていって、男同士で酒を酌み交わすってきっとこんなのかなぁと想像した。
制作会社へ直談判で飛び込みTVマンへと転身した彼は、その後めきめきと頭角を現し、最近は取材対象に密着する硬派のドキュメンタリー番組を演出していた。その人懐っこさを強力な武器に、相手の普段は見せない顔や本音を引き出す手腕を持つ、売れっ子ディレクターになっていたのだろう。
もちろん彼が自身で決断したのだったが、ひょんなことから堅気の会社員を同業のTV界へ引き入れるのに加担することとなった当時のわたしは、その後会うたびに、仕事の話を生き生きと語るその顔を見て、じつは内心こっそりと胸を撫で下ろしていた。「仕事、ノってるんだな」「また海外ロケへ出ているに違いない」と、ここ最近、連絡しなかったことが悔しい。
今はお互いにやるべきことも見つかって、それに打ち込み、責任を果たす時期なのだろう。だから、もう少しオッサンとオバサンになって時間ができたら、ゆっくり会おうね。いつになろうと会えばまたすぐに子供の頃に戻って遊べるのだ。そんな風に、勝手に思っていた。でも、別れは突然にやってくる。まだ何の準備もしていないっていうのに。その若さで、スポーツマンの頑丈な身体で、何の前触れもなく逝ってしまうなんて。
いつか、または明日にも、わたしたちは死を迎える。誰もそれから逃れることはできない、明日があるという保証は誰にもない。それでも(だからこそ?)今日を、明日を、より良く生きたいと願い、いわば矛盾を抱えながら毎日を過ごしている。そうわかっていても、見たくないものは見ないようにしようと、ついやり過ごしてしまう。
けれどこれからは「なにやってんだ、お前」って、彼にどつかれるな。「感謝の言葉を伝えているか」「会いたい人にはどんな理由があれ、すぐ会いに行け」「今日を大事に生きろよ」
りょうかい、これからもよろしく。




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